災害時に非常食を通して食物アレルギーの人たちに ❝ 誰でも対応できるように ❞

大混乱の中でも ❝ 誰かが気づけるように ❞

そして、食物アレルギーの人にアレルギー配慮非常食を❝ しっかり届けるために ❞

 

東日本大震災、福島で子どもたちと避難した人。

東日本大震災で食物アレルギーの子どもたちに対応した学校の先生。

そして、当事者の想いを重ね合わせ、備蓄だけでは足りない「届けること」まで考えてアレルギー配慮非常食セットをつくりました。

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東日本大震災発生から72時間を学生と避難した方のインタビューを全文掲載

話し手:荒木信彦さん(当時、富岡高校「桜風寮」管理人)

インタビューアー:アレパパ代表 今村慎太郎

 

荒木さん顔

(荒木信彦さん)

【3月11日 地震発生】
地震があった3月11日の14時46分は、富岡町にある県の合同庁舎にいました。双葉郡の3町村の役場の関係者、県の関係者と、14時からの会議に出席していたのです。

私は、富岡第一中学校の野球部の外部コーチもしていました。3月11日は卒業式で、次の日12日は試合の予定でした。16時から子どもたちにノックをする予定で、会議に出席していました。そして、14時46分に、あの地震が起きました。

地震の揺れはすごいものでした。合同庁舎が壊れてしまうのではないかと思うくらいの揺れでした。いきなりの揺れに、会議に参加していた人たちは机の下に隠れましたが、私は机の下に隠れるかどうか迷っていました。揺れが止まらず、永遠にこのままなのか、と思うくらいの長い揺れでした。周囲の物が落ちてきそうになっていたため、私も机の下に入りました。とにかく揺れがすごくて、机の下から出ることができませんでした。出口に歩いていくことすらできないのです。全く動けませんでした。そこにいた誰一人、動くことができませんでした。

この日は、余震が多く、全く眠れませんでした。ただ今思うと、みんな冷静でした。寮の子どもたちは、本を読んだり、中には勉強をしている子もいました。

地震のあと、会議をしていた合同庁舎から、富岡の寮に戻りました。普段は車で5分もかからないところなのですが、あの時は30分以上かかりました。信号は全て止まり、家の壁が落ち、道路の脇には恐怖で中に入れない人たちで溢れ、その道路を避けながら、ようやく寮まで着くことができました。

地震の後は、全く情報が入ってきませんでした。電気が止まっていたので、テレビがつきませんでした。今考えると、車の中でラジオは聞けたのですが、あの時はパニックで情報収集もできませんでした。
寮に着くと、目の前にある学校から、生徒を寮に戻すという連絡がありました。通いの子たちは親が迎えにきていたと思うのですが、生徒の中にはいわきから来ている子どもたちもいました。子どもたちは親が迎えに来ないと返せません。しかし、電車は全て止まっています。そのため、寮の子どもたちと、寮以外の10人弱の学生を迎えに行きました。余震があったので、職員と相談し、新しい建物である女子寮の食堂にみんなを集め、寮の食堂で寝る準備をしました。電気はそのうち戻るだろうと思っていました。そして、ここで一夜を過ごすことになるだろうと思い、水を出したり、トイレを確認したりしました。食べ物がないため、子どもたちが持っていたカップラーメンやお菓子を出してもらい、配給制で分けました。しかし、寮は電気コンロだったのでお湯が沸かせず、学校から持ってきた石油ストーブでお湯を沸かしました。この時、電気ではないもので動くものが大切だなと思いました。食堂には学生以外の人たちもおり、100人くらいがいたので、食事が全く足りませんでした。そのため、私達職員は食べませんでした。食料は子どもたちの分だけです。みぞれが降っていた23時くらいに町から、レトルトのパックが届けられました。明かりはストーブしかありませんし、すでに眠っている人たちもいたので、届いたレトルトはその時には分けず、次の日の朝食で分けることにしたのです。この日の夜は、私の頭の中は、食料を調達することでいっぱいでした。しかし、どこに行けば食料があるのか分かりません。100人分の食料をどうしようかと考えながら一夜を過ごしました。

【3月12日避難開始】
3月12日の6時頃になって、ようやくメールが繋がりました。初めは卒業生から「大丈夫ですか?」というものでした。県の方とも電話がつながり、こちらの状況を伝え、学校の指示で動くことになりました。そのころ、子どもたちには冷たいレトルトを食べてもらいました。全て分けてしまうと、昼夜がどうなるか分からないので、レトルトのご飯や豆ごはん、鶏五目ご飯を2人1つとして渡しました。そして、食べ終えた6時半頃に学校から避難の連絡がきて、川内村に避難することになりました。

避難場所には、布団と毛布と貴重品を持って向かいました。数日したら戻れるだろうと思っていたのでみんな身軽でした。まだこの時は、何のために避難するのか、分かっていませんでした。校長からは「原発が危ないのかな?」という程度の話しがありましたが、この時点で、原発は全く気にもしませんでした。避難は、電気が止まったからだと思っていました。

寮を出たのは8時過ぎ、寮から避難場所の川内村に向かいました。向かう途中、ローソンがある場所で、完全防護服姿、ガスマスクをした警察官が交通整理をしていました。ここで放射能が漏れたと思いました。生徒は寝ていましたが、私は警察官の姿を見てパニックです。このローソンから普段は30分で着く場所が避難場所ですが、大渋滞で3時間かかりました。

また、3月12日は暑い日でした。冷房をかけていないと大変なくらい暑かったのです。しかし、ガソリンが少なく、エンジンを切りながら、冷房をつけずに車を走らせました。警察官の姿を見て不安でしたが、窓を開けないと辛いくらい暑かったのです。ガソリンは川内村まで辿り着けるのか不安なくらいの量でした。

川内村に到着し、ガソリンを入れようと、ガソリンスタンドに行きました。しかしガソリンの規制で、2000円分しか入れられませんでした。20リットルくらいです。川内村には富岡町だけでなくて、双葉町や大熊町からも避難した人たちが来ていました。川内村には富岡高校の分校があったので、そこに行くよう校長から指示がありました。その情報しかなかったため、人がたくさん押し寄せていることは想像できませんでした。実際は、次々に体育館に人が集まってきていました。私達は教室に逃げるように移動しました。そして、15時36分、職員室でテレビを見ていると、福島第一原発が爆発します。見ていた人たちは、職員室では大騒ぎです。喧嘩にもなりました。「 逃げてきたばかりでどこからの指示もなく動けない 」「 子どもの命をどうするんだ」など。とにかく遠くに逃げなければいけないと思いました。騒いでいたのは職員室にいた人たちで、生徒は大人しくしていました。結構のんびりとしていました。この時点では、情報が一切ないため、まだ、なぜ避難しているのか分からないのです。

川内村には PTAのOBの方がいて、野菜などを持って来てくれました。夜、それをおかゆにして配ってもらいました。ここで食べたのが、避難後、初めての食事です。つまり、11日の昼から12日の夜まで、食事をしていませんでした。

食事を終えると、また、校長からまた避難の連絡がありました。次は、郡山北工業高校に避難することになりました。川内村を出て、22時くらいに郡山北工業高校につきました。

郡山北工業高校では自衛隊から物資が届けられました。最初は食べ物ではなく缶ジュースでした。その缶ジュースが届くとあっという間に無くなってしまうのです。みんな、自分のカバンにどんどん入れてしまうのです。これから先、何も飲めなくなると思ったのでしょう。ただ置かれていく自衛隊の物資に、順番に並ぶわけでもなく、ハイエナのように持って行ってしまいます。あっという間に無くなってしまいました。

避難する人たちがどんどん増えました。郡山の近辺の人たちが避難してきました。すると、今度は火の取り合いです。寒いので、何カ所かあるストーブの取り合いが始まります。もう、24時過ぎです。毛布にくるまり、ストーブの周りに集まっていました。この時もまだ情報がありませんでした。特に、放射線についての知識は全くありませんでした。私の知り合いが11日に富岡町でバーン!という音を聞いたそうなんです。何が起きたのか分からない状況で、消防の方から「直ぐに逃げなさい」と言われたそうです。「 もう、この町にはいられないから、直ぐ逃げてきた」と知人は話してくれました。この話しを聞いて何を思ったのか、私は、この人は放射能を浴びてしまっていて、放射能を浴びた人と話したから、私にも放射能が移ってしまっていると思ってしまいました。怖くなり13日の朝にスクリーニングをしに行きました。結果は大丈夫でしたが、それくらい、知識も情報も無い中で様々な噂に翻弄されました。また、ヨウ素が40歳以下に配られました。41歳以上は飲まなくて良いと言われたのですが、なぜなのか分からず、理解ができないためパニックになりました。41歳以上は本当に飲まなくても良かったのです。しかし、あの状況では、何が本当の情報で、何がウソなのか、全く判断できない状況でした。

ここでは、食事ができませんでした。先ほどの通り、届いた物資はすぐに持って行かれてしまいます。自衛隊の人しかおらず、統率する人が誰もいませんでした。学校の先生だけで避難所を運営していた場所は、先生たちも帰ってしまうので、機能していませんでした。後から聞いた話ですが、宮城でも同じような状況だったようです。地域の人と一緒にやっているところはうまくやれたようです。置いたら無くなる、次に置いたら無くなる、まさにハイエナ状態です。物資を取りに行く生徒もいれば、ただただ見ているだけの生徒もいました。ひたすら親の迎えを待つだけの生徒もいました。

生徒から聞いたのですが、おじいさんやおばあさんが、生徒たちが寮から持ってきたお菓子を持っていってしまうこともありました。おじいさん、おばあさんから「お腹が空いて死にそうだからお菓子をよこせ」と言われたそうです。生徒も「泣きつかれて、仕方なく渡しました」と言っていました。お腹がすくと、いろんなことが起きるものですね。もう、生きるか死ぬかですし、あの時は、放射能といえば、チェルノブイリのイメージが強烈にあったので、つねに頭の中には「死」がありました。

【3月13日次男】
地震発生から2回目の朝を迎えました。ここが最後の避難場所になります。ここにいたのは1日だけです。ここまでの間にほとんどの子どもたちが親のところに戻ったので、ようやく我が子を迎えに行きます。

私の次男は当時、小学校6年生でした。次男の小学校は先生の判断で遠回りをして高台に逃げたそうです。小学校の近くに橋があり、その橋を通ると高台に近いのですが、もし、そこを通っていたら津波にあっていました。6年生の次男は1年生をおんぶし、さらに低学年の子2人と手をつないで高台にのぼったそうです。学校までくる津波をみていた子たちもいたようです。

次男を迎えに行き、私と妻と次男の3人に加えて、岩手からきていた子を連れて、二本松の妻の実家に行きました。長男はまだいわきにいました。この頃、卒業生の親からの連絡で、「もう一回爆発がある」「宇都宮でも放射能が出ているから逃げないと大変なことになる」と言われていたので、私の実家がある静岡に避難することにしました。しかし、妻の父と母を説得できませんでした。私達は子どもたちへの放射能のことが心配だったので、3月15日に静岡に行くことになります。岩手からきていた子はちょうどこの頃、親戚の方が迎えに来てくれました。

【3月14日長男】
3月14日に車にガソリンを入れ、長男を迎えに行きました。長男はいわきにいました。長男が所属する野球部12名のうち、長男1人だけが双葉郡でした。地震の時は、体育館に逃げて、その後、友達の家に行ったようですが、また体育館に戻ったようです。3日間で、せんべい1枚と饅頭1個で過ごしたそうです。

ここまでの避難では食べ物をほとんど見ませんでした。配布されたのは飲み物だけの記憶です。固形物であるのは寮から持って行ったお菓子くらいです。ご飯は一切ありませんでした。もしかしたら、どこかにはあったのかもしれませんが、それをみんなに配るだけの量がなかったのでしょう。郡山やいわきなどから相当数避難してきていたので、それを全員に配るだけの量がなかったのでしょう。寮に置いてきたのが悔しいと今でも思います。今でも、寮は避難した当時のままです。寮に行く度に、これを持って逃げれば良かったなと思い出します。

【復興と備え】
宮城の大きな地震については震災前から聞いていたものの、まさか、自分の身に降りかかるとは想像すらしていませんでした。まして、福島第一原発については、富岡町の人の6割が原発関係で働いていたので、それだけで安全だと思っていました。災害時は、本当に何があるか分からないものです。

寮には食物アレルギーの子どもがいました。寮に入る前に調査をし、食べられない食品は出していませんでした。しかし、避難の時に食物アレルギーには一切考えおよびませんでした。他の人も気づいていないと思います。もう、あまりにいろんなことがあったので。今振り返ると、あの時、食物アレルギーの子はどうしたんだろうと思います。こうしてインタビューを受けて、思い返してはっとしますね。それくらいあの時は異常でした。

経験した避難時の状況を考えると、食物アレルギーの人に対応した非常食はとても大切だと痛感します。

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